「映画の父」といわれるフランスのリュミエール兄弟は、「映画を発明したのではなく、映画を観る大衆を発明した」と言われています。大衆が同時に楽しめることがなければ、映画文化はこうまで広がることはなかったのかもしれません。そして「人を集める」というその特性は、国連が掲げる「持続可能な開発目標(SDGz)」にも寄与することができる――。そのことを証明された吉村司さんにインタビューさせていただきました。アフリカやアジアでパブリックビューイングを行ってきた吉村さんの半生は、まるで映画のようでした。(記事:教来石)
吉村司氏プロフィール
1979年上智大学卒業。三菱電機株式会社を経て、1984年よりソニー株式会社入社。
事業部での商品企画、営業部門でのマーケティング業務を経て本社プロジェクトなどを歴任し、360度映像・自由視点映像(バーチャルリアリティ)の事業化マネージメントや1人乗りパーソナルモビリティーの企画推進、深海探査プロジェクト参画など、新技術と新ビジネスの間に横たわる死の谷(Death Valley)を埋める事をテーマとし、人々が集まる「プロジェクト論」の研究を主に行っている。2015年、株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所入社。
2009年ガーナからサッカーのパブリックビューイングをスタートさせる。40回に及ぶ。人々に感動を届けつつパブリックビューイングの動員パワーを使ってHIV/AIDSの血液検査や感染病ワクチン開発などの保健プロジェクトに参画。またアフリカ、アジアの無電化地域に向け、独自開発の自然エネルギーシステムを使って生活実証実験を行っている。
活動地はガーナ、コートジボアール、ケニア、シエラレオネ、インド、バングラデシュ、インドネシア、カンボジア他。
人を楽しませる天性
――最初に個人的な興味で子ども時代について伺わせてください。吉村さんはご両親共に小説家というご家庭に生まれ育っていらっしゃいます。本が好きな私にとってはうらやましい環境ですが、子ども心に特別な家庭にいるという感覚はありましたか?
特別な家だというのはあまり感じませんでしたね。父母は結婚後、行商をする程、裕福な家ではありませんでした。友達の父親は会社に行っているのにうちの父はずっと家にいる、大丈夫なのだろうかと、収入の面で子ども心に不安を感じていました。私が小学校高学年の時に母が芥川賞、父が太宰治賞を受賞して、家にいても仕事をしているんだと安心した覚えがあります(笑)。ただ、小学生の頃は親が小説家と言われるのが嫌でした。なので友達にも親の職業を言うことはなかった。中学生になって、小説への理解が進んでからやっと、両親の仕事に誇りを持てるようになりましたね。
――個人的な考えですが、吉村さんが後にアフリカでパブリックビューイングを行われたりなど、「人を楽しませる精神」みたいなものは、作家であるご両親のDNAから受け継がれたものなのかなと思います。人を楽しませる吉村さんは、入学された上智大学で、いろいろなイベントを企画されていたそうですね。
文化祭の前夜祭や、「これから大学はどうなるか」というシンポジウムを開催したりなど、いろいろなことを企画していましたね。企画した「年忘れ紅白対抗芸人大会」はその後10数年続く伝統にもなりました。勉強はまったくしていませんでした(笑)。
うちには芸人が必要だ
――勉強はされていなかった吉村さんですが(笑)、順調に三菱電機に入社されました。なぜ電機メーカーを選ばれたのでしょう?
子どもの頃に、家電が生活を変えていった実体験があるからだと思います。僕は家電が好きで、家が家電を買うと一日中、取説を読んでいるような子どもだったんですけれども(笑)。今まで箒ではいていたのが、掃除機を買うと埃を吸ってため捨てるのは一週間に一度。冷蔵庫もすごい。今までその日に買ったものは新鮮な内にその日に食べるのが基本だったのが、買い溜めができるわけです。電化製品を買うとエライことになると。
中でもテレビには感動しました。3歳か4歳の頃に、初めてテレビを見ました。狭いアパートでしたが、親父がテレビは教育にいいと思ったらしく、給料の二年分をはたいてテレビを買ったんです。近所の子どもたちが見に来たりしてね。
家電品が電球しかなかった時代から、ラジオ、洗濯機…と増えるにつれて、生活がどんどん変わっていく。その時代の感動を知っているので、最初から電気メーカーに行こうと思っていました。
――子ども時代の吉村さんは、今途上国でスクリーンを見る子どもたちと同じ目をしていたのかもしれませんね。
三菱電機で6年務められた後、ソニーに転職してらっしゃいます。今だと転職は当たり前ですが、吉村さんの時代の転職は珍しいという印象が。ソニーに転職されたきっかけは何だったのでしょう?
27歳の時、ゴールデンウィークに、後に僕の妻となる女性と、ソニーの会長秘書の女性と、後に彼女の夫となる男性と四人で旅行に行ったんです。伊豆のペンションでテニスをやったりしてね。当時、冬はスキー、雪のない季節はテニスと相場が決まっていましたから。
夜になって四人でテレビを見ていたら、NHKのニュースで、日本鋼管の会長が亡くなったというニュースが流れてきたんです。ソニーとして弔電を打たないといけないと、秘書の友人が立ち上がって、電電公社に電話で口頭で伝えて電報を打って。その後に会長に電話して、「弔電を打っておきました」と報告してるんです。
秘書は休みの日でも大変だなと思いながら、「今、盛田会長に電話していたの?」と聞いたら、「留守番電話に吹き込んだ」というんです。当時はメールも携帯電話もない時代。会長と秘書は休暇中も留守番電話経由で連絡を取り合っているのですね。留守番電話というものがあることは知っていたけど、メッセージを聞いた後、リモコンで音声を消すこともできるというので、「俺も吹き込む」と。伊豆からソニー本社にある留守電に吹き込み、遠隔操作で聞いた後に削除すればいいのですから。5分間くらい、電話口でいかに秘書の足が綺麗かを描写し吹き込んだのです。で、録音した自分の声を聞こうとリモコン操作したのですが、再生しなかった。なんだソニー製、ダメじゃないかと思って。
そしたら連休明けに、秘書から電話がかかってきて、「会長が会いたがってる」と言うんです。僕のあの足の描写を会長が聞いてしまったと言うんですね。推測するに5分も吹き込んだのでテープ式の留守番電話だったから巻き戻しに時間がかかったのでしょうか。
その報告を聞いて真っ青になりました。他社の人間に留守番電話を使わせたのですから、普通なら秘書は叱責を受ける。でも、盛田会長は声の主に会いたがっているというのに衝撃を受けたんです。その瞬間、ソニーに行くしかないと思いました。三菱電機はとても居心地がよくて気に入っていたのですが、私にとっては衝撃的な事件でした。
盛田会長に会いに行ったら、こう言われました。「うちの社長知ってますか?大賀って言って芸人でしてね。ソニーは芸人がイキイキと仕事するような会社じゃないといけない。あんたは芸人のようだ」と。私の履歴書は会長室から、筆記試験、面接もなしでソニーに入社しました。
これからはバーチャルリアリティとロボットだ
――ソニーに入られてからはどんなお仕事を?
三菱電機では暖房機の営業をしていましたが、ソニーに入ったらコンピューターの企画をやることになりました。ソニーがどんどん大きな会社になっていく。すると設計なら設計、品質管理は品質管理、営業は営業と別れて仕事をする。しかしこれがソニーの問題なんじゃないかと会長が新しい制度を作った。一気通貫で企画から売先を見つけるところまで全部一人でやるという職種。それを私は5年やった後、よい商品を作るには研究まで遡らないとだめなのではないか、と思うようになりました。
1997年に、これからはバーチャルリアリティとロボットの時代が来ると思い研究所にいきました。白黒テレビ、カラーテレビ、ハイビジョン、そして4Kテレビ。画素を増やすことだけが、進化なのだろうか?たとえばオリンピックのテレビ中継を「見る」のではなく、オリンピックの会場にお客さんを「連れていく」、そこにいるような感覚が味わえる空間放送に進化していくべきなのではと思いました。でもいきりなりそれは難しいので、まずは360度カメラからスタートしました。そのカメラで作ったモーニング娘。「スペースビーナス」は発売月にオリコンチャート1位。360度カメラをつかった商業化は僕たちが世界初だったかもしれません。
ところが、2003年にソニーの研究所は次々と潰れていきました。潰れた研究所の一つが僕たちの研究所でした。
次世代のソニーの柱はバーチャルリアリティだと信じていたし、自分たちの役割はその一端を担うことだと信じていたので、解散となった時、精神的な苦しさを味わいました。極端に言うと、「人生終わったな」というくらいに落ち込み荒れました。やけ酒を飲んで家族に当たったこともありました。
――そこから吉村さんを這い上がらせたものは何だったんでしょう?
一つは妻の支えです。僕が荒れて絶望的なことを言っていた時に、「まだ私たちには娘たちがいる」と諭してくれました。もう一つは、当時CEOだった出井さんに相談しに行った時に言われた言葉です。技術とビジネスの間には死の谷がある。「死の谷を埋める仕事をしろ」と。それで、クリエイティブセンター(デザイン部門)に行けと言われました。
サッカーは世界中で愛されるスポーツ
――クリエイティブセンターから、アフリカでのパブリックビューイングのプロジェクトにつながっていくのでしょうか?
実はVRをやっていた時代、出井さんにFIFAと契約した方がいいと説得に行ったことがあったのです。世界で一番見られているスポーツはサッカー。ワールドカップの総視聴人口が240億人で、オリンピックより多くの人が見ている。そこにソニーの映像技術が入るのは重要だと。サッカーの感動を伝える為にVRを含むソニーの技術を進化させていく。「サッカー」というわかりやすい目標を提示することは、今ソニーに必要な全社プロジェクトだと仲間達と一緒に出井さんにプレゼンをしました。
8年の間にワールドカップが二回。南アフリカ、ブラジル大会や43のFIFAイベントがある。ソニーの広告を出せる他に、大事なのは開発途上の新型カメラなども試合会場に自由に持ち込めるはずだと。その後ソニーはFIFAと契約を結びました。
――すごい。
私はFIFAの契約を提言した1人。映像の研究もやっていた。なのに、クリエイティブセンターのFIFAプロジェクトのリーダーは藤木元(ふじき・げん)だと言われたんです。
――藤木元?
大のサッカー好きで、ワールドカップ中は一カ月平気で休むようなやつです。「なんでよりによってあいつなんだ」と思いました。私がソニーの新シリーズを企画した時でした。生意気で言うことを聞かない。思わず「バカ野郎」と言いたくなるような、顔も見たくないくらいのやつでした。こんなやつがリーダーだなんて、自分は呪われてるんじゃないかとさえ思いました(笑)。
でも、ミーティングをしているうちに、藤木のサッカーに対する情熱や話の面白さに感化されていきました。会社の大会議室で彼が勧めるサッカー映画を2本見せられ、彼の解説を聞く内に、こいつがFIFAプロジェクトのリーダーになるのは当然でこいつの信じるシナリオ通りに仕事をしていこうと思いました。
藤木の他にもチームメンバーが増えて7、8人になり、FIFAとの契約を活かすことを考えていきました。
そんな中、藤木が言うんです。ワールドカップは、アフリカの人たちが簡単に観に来られるものではない。自分がワールドカップの現地に行った時も、アフリカのチームのサポーターは少ないことが多い。アフリカはテレビや電気もない地域も多いはず。だから、アフリカでパブリックビューイングをやってサッカーの感動を届けようと。こんな風に車にスクリーンをつけて、と図を見せてくるんです。
――藤木さんの構想から始まり、実際実現に至るまでには様々な苦労があったのではないでしょうか?
まず、会社として我々がアフリカに行くなんて業務として理屈がつかないですからね。デザイナーである我々だけど、自ら動こう、自分達を「実行委員会」と定義して日比谷で開催されたグローバルフェスタで国際協力に携わる方々にインタビューしたりして実現性をはかっていきました。
途上国でサッカー映像を見せるというプロジェクトの構想をお話したら、興味を持ってくださるんです。サッカーのパブリックビューイングをやったら、人がたくさん集まる。その会場でワクチンを打つなどの保健事業ができると。ソニーと連繋プレーができるのではないかと。結果的にJICAと協業することになりました。
ワールドカップまであと1年と3か月という時期でした。事前に予行練習をしないといけないという話になり、12月あたりにやろうかと話していたら、藤木が早めて6月がいいと言うんです。6月というと、3か月後です。「バカ言うな。間に合うわけないだろう」と。「なんで6月にこだわるんだ?」と聞いたら、「ワールドカップが6月。同じ雨期に予行練習しなければ意味が無いと。今年の6月、コンフェデレーションズカップがある」と言って曲げないんです。JICAがその無謀な提案を受けてくださり、6月にガーナで予行練習をやることが決まりました。
感動を届ける会社
――社内の反応はいかがでしたか?
社内は依然厳しい状態でした。ソニー社員がアフリカ・ガーナに出張で行った前例はないですし、FIFAの契約を活用するとは言え、ビジネスにならないサッカーのパブリックビューイングという荒唐無稽なことをやろうとしている社員に許可が下りる可能性は薄い。出張費は出ないし、機材もどうするんだと。サッカーのパブリックビューイングはエンターテイメントだから、国連が掲げるミレニアム開発目標に合わず社会貢献にならないと、反対される理由はたくさんありました。一方で、JICAは「ソニーさんも来ますよね」と言っている。
という状況の中、我々にとって救世主3人が現れたんです。小暮さんという役員で、藤木が小暮さんにプロジェクトの話をしたら面白いと言ってくれた。過去、木暮さんの担当商品を藤木がデザインをした事があるのですが、「プロジェクターなら俺の管轄だ、二台持っていけ。ソニーは感動を届ける会社だ」と。一人の役員が面白いと言ってくれたことで、社内の風向きが変わってきました。
それから、海外営業のマーケティングをやっている福島さんが「これは会社のプロモーションになる」と言って、彼の予算枠でヨーロッパから撮影隊を密着させると言ってくれました。その映像を使ってPRビデオを作ると。また、広報担当中川さんもこれは是非会社として広報発表をすべきだと乗ってくれました。
私達がJICAと直接交渉をしていて、しかも連携がHIV/AIDSの血液検査というシナリオがわかってくると、単なるエンターテイメントではなく、国連が定めたミレニアム開発目標にも合致するとして、プロジェクトの主幹はソニー本社CSRが担ってくれました。
私は会社の許可が降りなければ休んで自腹で行こうと思っていたのですが、最終的に渡航費もソニー本社のブランドマネジメント部から出ることになりました。
――会社の組織の枠を超えた活動になっていったのですね。
このプロジェクトで大事な企画がパブリックビューイング以外に一つありました。それはオリジナルデザインのボールです。なぜサッカーが世界で一番普及しているスポーツなのかといえば、ボールが一個あればできるからです。藤木は子どもらにとってボールはとても大切な物のはずと言う。現地では草や靴下を丸めてボール代わりしていることも私達は知りました。「私達のメッセージをデザインしたボールを是非現地に届けたい」ということになりました。
アフリカは暑いし整備されていないグラウンドで使うので、すぐにパンクしてしまうことがわかってきました。そこで私はマテリアル研究所に5年くらいもつボールを作れないかと提案しました。当時研究所は植物由来のプラスティックなどの新素材の研究をしていて、その数ヶ月後、ソニーオリジナルボールの試作ができました。しかし製造物責任はどうすんだ、目に当たったらどうする、ボールで転んだらどうすると指摘されて、2009年時点では配るのは禁止で、試合や練習に使ったら回収することにしました。
歓待、成功、友の死
ボールを開発してくれた研究所の湊屋さんと、クリエイティブセンターの中西、ソニーPCLのエンジニア水上さんと僕の四人でガーナへ行ことになりました。
藤木に「お前の代わりにアフリカにいくのだから、Tシャツのデザインをしろ」と言いました。私は学生時代から「プロジェクトを行う時には必ず皆でユニフォームを着たい」という考えがあっての頼みで、藤木は自腹で作ってくれることに。
彼のデザインは、バオバブの木の下に象や鹿など動物がいて、JICA&SONYと書いてあるブルーのTシャツでした。同行してくださるJICAの方々にも着ていただこうと、何枚必要ですか?と聞いたら、少し考えて、200枚!だとおっしゃるんです。どういうことですか?今回SONYさんが来るので現地のサポーターは全員で200人くらい。全員に着せたいというわけです。実はこのTシャツ自腹なんです。200枚はキツイと言うと、200枚分はJICA負担とするから大丈夫だと言われたので安心しました(笑)。
ところが、ガーナ出発三日前になって、Tシャツについてガーナ政府からクレームが来たんです。Tシャツに青い象が描かれているが、ブル―エレファントは前の政権の象徴だから変えてくれと(笑)。藤木は大急ぎで象をサイに変えて、版下をJICAに送りました。直前過ぎるから間に合わないだろうと思いながら3日後にガーナの最初の街に行ったら、全員がその変更されたTシャツを着て迎えてくれたんです。圧巻でしたね。
――大歓迎されたのですね。
ガーナでは七か所を回りました。どこにいっても、ソニーが来たとパレードや横断幕で練り歩いてくれました。ラジオや新聞にも取材してもらいました。昼間は衛生に関するクイズ大会をやったり、地元の人々を指導して俳優になってもたって、「エイズになった場合、どうするか」という演劇を上演したり。パブリックビューイングの大スクリーンに啓蒙映像を流したりと、楽しみながら教育的なプログラムを行いました。
JICAとソニーの連携は大変うまくいきました。JICAの経験に基づく予想を大幅に超える人々が血液検査を受けたのです。地区によってはJICA予想の9倍の人々が受診されました。パブリックビューイングの力です。もともと藤木を中心としたパブリックビューイングの企画はサッカーの感動を届けるという一点でした。しかし蓋をあけてみたら、保健事業という貢献ができてしまったのです。
ガーナから藤木に電話で報告しました。「おまえの言う通りだ。アフリカの人たちにとってサッカーはとても大切な夢で、たくさん人が来てくれて大感動だ。予行練習がこれだけうまくいったから、来年の本番は成功間違いなしだ」と。電話口で藤木は泣いていました。帰国後は動画や写真も見せて報告して、それから一週間後でした。藤木が亡くなったのは。
――えっ…。
実は私は全く知らなかったのですが、藤木は糖尿病やら腎不全やら、たくさん持病を持っていてそれが相当悪化していたらしいのです。
ワールドカップ・フランス、ドイツ大会も彼は人工透析をする病院を確保して渡航していたと奥様から聞きました。ガーナではそれができません。キャラバンを組んで各地を回るのですから首都から遠く離れて活動する。本当は藤木が1番ガーナに行きたいと思っていたはず。
彼の病気がそこまで悪くなっていたとは知らず、私は親が死んだ時より泣きました。藤木を失ったことは私にとって人生の一大事件でした。
社内では、ガーナの2009年パブリックビューイングはトライアルのはずでしたが、大成功を収めたことによってプロジェクトが一挙に会社全体の正規プロジェクトに昇格しました。なんといっても来年はワールドカップ本番の年。成功間違いなしです。定例会議にいったら60名いるんです(笑)。でもリストを見たら自分の名前がない?あ、あったと思ったら、自分はアドバイザーのような位置付けでした。若い人がやる中、自分がしゃしゃり出ていくのもおかしいと納得しようと努力しました。
これは俺のプロジェクトだという意識が私にはありました。無論、皆それぞれそう思っていたと思います(笑)。完全に僕の生き甲斐になっていましたが、しかし藤木もいなくなってしまったし、あの会議をきっかけに、この仕事を忘れなくてはと自分に言い聞かせました。
再びアフリカへ
――そこから再びガーナに行かれることになったのはどのような経緯があるのでしょう?
年に一度行われる社の技術情報交換会で、太陽電池でソニーのテレビやプレステが動いているのを見たんです。ソニーの商品で一番電気を食うのはテレビ、プレステですが、それが電池で動いている。それを見て思わず「これはアフリカに持っていける?」と説明員に言ってしまったんです。
前年、ガーナでは発電機を使っていたんですが、ガソリン補給は必須です。しかし太陽発電と蓄電池があれは燃料補給の為に街に帰らず、連泊でパブリックビューイングができる。
「アフリカ?どういうことですか?」と聞くので、「俺のこと知らないの?俺と言えばアフリカよ」と(笑)。そこで昨年のパブリックビューイングの話をしました。技術者は目的が明快で志が高い仕事になると無敵になる。パブリックビューイングに最適化されたシステムをわずか3ヶ月で開発してしまった。
しかし試作品ですし、動作保証をするものではない。なので確実に成功させなくてはいけない。JICAとソニーの連携プログラムに採用してもらうことはできないと判断しました。
よって昨年私とガーナを巡った中西が率いる本社チームとは別で、太陽電池の実験を行うチームとして再びガーナを訪れることになりました。私のチームは発電、蓄電を繰り返し、無計画に車を走らせて、小学校があるとアポ無しで入って行き、太陽光発電と上映を繰り返すことをしていました。旨くシステムが動作するようにと、藤木の写真をお守りにシステムに貼って村々をめぐりました。
「入場料取らずにソニーコマーシャルもやらずに感動だけを届けにきたのか!」と驚かれ、ホロホロ鳥や生卵をバケツ一杯くれて大歓迎してくださるところが多かったです。
校長先生の中には、僕らと触れ合ったことをきっかけに、「ここに留まっていては発想が限られる」と、街にアパートを借りた方もいます。
その年、このプロジェクトはガーナ(JICA連携)、カメルーン(UNDP連携)、約一ヶ月24,000人がパブリックビューイングを楽しみ、そのうち約4,800人が検診を受けました。HIV/AIDSはその内約2%が陽性だったのですから、このプロジェクトは結果的に人々の命を救う一端を担ったことになりました。昨年は配れなかったサッカーボールですが、3,372個もアフリカに届けることができました。
天国で藤木は自分が発案したパブリックビューイングによって多くの人々がサッカー観戦を楽しみ、しかも保健事業についても大貢献、人々の命を救ったことに喜んでいると思います。
――藤木さん亡き後も、吉村さんはアフリカ、アジア各地でパブリックビューイングを続けられて、2017年には、シエラレオネで実施されましたね。
たまたま東京大学の医科学研究所を訪れた時です。河岡先生のチームはエボラ出血熱の研究をされています。2014年から15年にかけてエボラ出血熱は大流行した。シエラレオネも5000人近い人が亡くなっています。ワクチン、薬の開発には現地の人々の血液採取が必須だというのです。エボラにかかったけど、復帰された方々もいます。何かしらの抵抗力があるから復帰した。そういう方々の血液を採取したいと。
そこでパブリックビューイングをやれば血液は集まりますよ、と私は言ってしまった(笑)。パブリックビューイングをやれば人は沢山くる。プロジェクトの主旨を人々にアピールし、その内の何%でもテントに入ってくれれば血液を提供してくれる人はいるはずと。ガーナでは血液検査でしたが、その経験を河岡先生にお話をしました。
アジアパシフィックアライアンスさんも参画されることが決まり、資金面も目処が立ち、一挙にプロジェクトは進みました。
2017年3月、約二週間の渡航でしたが、すでにソニーとFIFAの契約は切れていますので、『ベスト・キッド』や『アニー』など、ソニーピクチャーの映画作品を4本持っていき上映することにしました。映画の他に「エボラ」「高血圧」「衛生環境」「マラリア」「コレラ」の5つの保健映画もシエラレオネの俳優さんを使って製作され、それも大スクリーンで流しました。
血液検査はその場で陰性か陽性か結果がわかるけれど、ワクチンの為の血液採取はその場で人々にとってメリットがわかりません。そこで簡単な健康診断をしてあげればいいと提案しました。身長、体重、体温、血圧。日本からもっていける市販の測定器具をもちこみました。その場でわかるメリットがあれば人々は集まってくれると思いました。
パブリックビューイングの会場脇に健康診断コーナーができました。これが大盛況。映画が始まっても列は途切れません。日本の先生が測ってくれるということもあったと思います。驚いたのは血圧が高い人が多いこと。シエラレオネは暑い、その為の食生活の影響でしようか、血圧が高い人がものすごく多いということがわかりました。平均寿命46歳。世界でもっとも平均寿命が短い国シエラレオネ。私はその理由がわかった気がしました。測定しつづけた先生方はどんな物を食べているか?などのアドバイスをされていました。
残りの人生を賭けてやるならエンターテイメント
――映画の上映が、SDGzに寄与したのですね。今まで約40回上映を行われている吉村さんですが、一番印象に残っている上映はありますか?
2015年に行ったカンボジアでの上映です。ソニーの若手社員に石島というのがいるのですが、彼が学生時代に作ったワールドフットという団体が、サッカーを通じて国際協力を行う団体でした。石島は、私達のアフリカのパブリックビューイングのYOUTUBEを見てソニーという会社はそんなこともできるのだと感動した男です。その石島が、カンボジア対日本のワールドカップ予選が行われるのだから、カンボジアでパブリックビューイングをWorldFutとしてやりたいというのです。藤木が天国から、「吉村さん、やるよね?」と言ってる気がしました。結果的に新潟アルビレックス、JICA、ハートオブゴールドの共催という形で実現しました。
僕はそれまでに36回アフリカでパブリックビューイング既に行っていましたが、カンボジアで学生たちとやったその1回のパブリックビューイングが、過去の36回をある意味越えたんです。
なぜならそもそもの動機が、保健事業ではなく、「サッカーの感動を届ける」からスタートしているからです。サッカーが大好きなワールドフットの学生たちは、カンボジアでパブリックビューイングをやっている間中、ずっとサッカーの応援歌を歌っているんです。90分間ずっと。「藤木、見てるか?」と、胸がいっぱいになりました。
――今まで吉村さんは、藤木さんの夢をより大きくして来られた気がします。最後に、吉村さん自身のこれからの目標のようなものがありましたら教えてください。
今僕は会社ではバッテリーのシステムをやってますが、自分の今後の長期のテーマではない気がしています。無電化地域が今後も拡大していくというなら話は別ですが、徐々に電化されていきますし、国連が無料でソーラーランタンを配っていたり、いろんなNGOが頑張って地元密着型で電力を届けている団体もおられます。
自分の残りの人生を賭けてやるなら、エンターテイメントかなと。もし電力を引き続きやるなら単に電気の供給だけでなく、電力を娯楽や教育の手段として使う。そこまで踏み込むなら会社の仕事としても成り立つのかなと。
――夢がエンターテイメント…。吉村さんのご経験、感動しましたし勉強になりました。途上国での映画上映の可能性を感じました。本日は貴重なお話をお聞かせくださりありがとうございました!
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