チベット難民の子ども達と移動映画館

ネパールの映画配達人、古屋祐輔さん、通称チョフさんから、映画上映のレポートが届きました!ぜひご覧ください!


映画館というものは特別な空間だ。一つの狭い空間に大勢の人が集まり、そして同じ方向を見る。
映画館の暗い部屋に入って自分の席を探す。最近の映画館は座席が指定になっているところも多いが、昔の自由席でどこに座ろうかと考えるあの時間が僕は少し苦手だ。

僕は身長が190cmある。

そうすると、座った時に後ろの人に邪魔にならないだろうか…と考えながら、なるべく端の席や、後ろの席を選ばないといけない。

チケット買っているんだし、そんな人を気にしなくてもいいやと思って、真ん中の方に座ってしまっても、今度は自分が前に座って申し訳ないとずっと心の中で感じてしまい映画に集中できないのだ。

友達や好きな人と映画を観に行く。でも、映画が退屈で眠たくなってしまう。一人で観ているならば問題ないが、隣の人に自分が寝むくなっているのがバレていないだろうか。せっかく一緒に来ているのに…と。映画以上に隣の人が気になって仕方がなくなる。

映画館に行くと映画の内容以上に感情が揺り動くものである。

映画館という存在にも特別なものがある。

今回ネパールでまた新しい映画館ができた。

TCP孤児院での上映

TCP(Tibetan Children Project)孤児院というチベット難民の子どもたちが暮らす孤児院で映画を上映した。

記憶に新しい2008年のチベットでの騒乱。そこで行き場を失った15人の子どもたちがネパールに渡り、カトマンズの郊外にある孤児院で暮らしている。

なんと、この孤児院を運営し子供達のお母さんとなっているのは日本人の人なのだ。

孤児院の子供達はいつもお母さんの隣にべったりと、たくさんの愛を受けてすくすくと育っている。

お母さんはチベット語が使える。なので子どもたちとは基本的にはチベット語で会話しているのだが、日本語でも子どもたちと会話する。隣にいつもいるお母さんのおかげで子供達も自然と日本語を覚えてしまっているのだ。僕との会話も日本語でほとんど話が通じてしまう。

隣にいる人からの影響によって子供達はこんなにも新しい知識やスキルを身につけてしまうのだろうと感心してしまう。

今回の映画の上映も子どもたちの成長に繋がるから是非来てくださいと、子どもたちへの愛を持っている接し方が見られた。

TCP孤児院の門の前で呼び鈴を押すと、子供達が「待ってました!」と言わんばかりで出迎えてくた。そして上映する部屋に連れてってもらい、子どもたちと一緒に上映をする準備をした。スクリーンをカーテンレールに結び、プロジェクターの高さなどを調整。僕がほとんど仕事をしなくても子供達が率先して協力してやってくれた。

準備が整うと、子どもたちがスクリーンの前に座って並び出した。

ここは映画館でもないし、学校でもない。一緒に映画を見るのは24時間一緒に過ごしている家族と言ってもいい人たち。そんな子どもたちは隣の人に気にせず自分が見やすい場所に座る。

僕は映画館に入ると他の人に気を使ってしまうのだが、こういう家族みんなで家の中で観れる大きなスクリーンでの映画ならなんて気楽なんだろう。こんな環境は映画館にもないだろうし、学校で上映しても作れない。隣を誰も気にしなくてもいい孤児院での上映だからこそ、できたものだろう。

映画の上映中も興奮した子どもたちが声を出して笑っている。普通の映画館だと声をあげることも憚れることではあるが、ここは大声で笑って良い。

大きいお兄さんお姉さん隣には小さい子たちが甘えるようにしている。お姉さんの膝の上に抱えてもらえる。隣にいる人肌を感じられるのも移動映画館がもたらしたものだ。

映画の上映中はお兄さんお姉さんに一番近づける時間なのかもしれない。映画を観ている子どもたちを見て、映画が終わらないでほしい、この時間がもっと続いてほしい、そんなことを感じてしまった。
それは、子どもたちの後ろで映画を観ている、いつもみんなの隣にいるお母さんも同じように思っていることだろう。

映画が終わった。

映画が終わりエンドロールが流れると、子供達が映画に拍手をしてくれた。長い時間、孤児院の子どもたちみんなで同じ方向を見つめていた。そのあとに隣にいた子どもたちが顔を横に向けて目を合わせる。その時に隣にいた子どもの表情、そして目が訴えているものからお互いの映画の感想などを伝えているのかもしれない。

感想は言わないで。

暗がりの中から電気をつけると、子どもたちは急に入ってきた光にまぶしそうにしている。

最後のまとめとして、僕が子どもたちの前に立った。スクリーンを見つめていた15人の瞳が今度は僕に集中する。

映画が終わったあと、、、「映画どうだった?」と前に立った人が聞くことはよくあると思う。

だが僕はあえてその質問は聞かないことを決めていた。

なぜならネパールの場合「カスト チャ?(どうだった?)」という質問をすると絶対と言っていいほど「ラムロ チャ!(素晴らしかった)」との答えしか返ってこないのだ。

ネパールの教育は教師の一方的な押し付けが今でも続いていて(それは日本でも同じなのだが…)一つだけの答えを良しとし、それ以外は認めない風潮がある。

「どうだった?」と質問すると、ネパールの子どもたちは条件反射で「素晴らしい」としか言えなくなっている。

本当はもっと子どもたちにも多種多様な感情があるはずだ。「素晴らしい」だけではない。主人公の活躍が「嬉しい」、そして悪役に対して「憎い」、ストーリーの内容で「悲しい」と思う子どももいるはずだ。そもそも映画観ること自体で「つまらなかった」そう感情が動く子どももいてもおかしい話ではない。

「どうだった?」と聞いてしまい、皆が一斉に「素晴らしかった」という一つだけの感情の空気を作ってしまうと、映画を観て本当に芽生えた感情を潰してしまうのではないか。

「今からみんなは絶対に何も喋らないでください。心の中で自分とだけで会話してください」

ます子どもたちに今この場でみんながいる時に、自分の感情を人に伝えないようにと言った。

「今日の映画を観ての感想を自分の心の中だけで考えましょう。すっごい楽しかった人もいるでしょう。まぁまぁ楽しかったとか思う人もいるでしょう。映画が難しくてつまらなかった、という人もいると思う。他には、主人公が好きだ、という人もいるかな。『楽しい』『悲しい』『面白い』『つまらない』色んな感情がみんなの心の中に芽生えたと思う。それらは全てが正解です。ひとつみんなに宿題です。今日の寝る前に今日見た映画をもう一度思い出してください。そして自分と会話して、もう一度自分の感情に気づいてください」

言葉は感情を区切ってしまう。

「素晴らしかった」という言葉一つで心を区切ってしまうのでなく、映画によって生まれた新しい感情を大切にして欲しい。

「素晴らしかった」の感情の隣には無数のグラデーションで言葉の意味とは違う感情があるはずだ。「素晴らしい」の隣にいる感情もある。「素晴らしい」だけではない「楽しい」や「悲しい」その言葉にも隣の感情はあり、言葉には表せない隣にいる感情も大事にしてほしい。

そして、ネパールの子どもたちには

「素晴らしかった」という感情以外の自分の気持ちを自信持って言える大人になってほしい。

、、、僕はそう思っている。

最後に皆で集合写真を撮った。

僕がカメラを持って、子供達の正面に立った。

「今日、映画を観て、、その時に感じた心を顔にしよう!自分の気持ちで顔にしてみよう。3・2・1・・・」

言葉では区切られる感情も、子どもたちだからこそ顔での表情なら無数に表現できる。

子どもたちがどう思ったかは、子どもたち自身で決めてほしい。

大人が勝手に子どもたちの心を切り取らないように。

映画の隣にいるもの。

今回初めて映画の上映をしてのレポートを書いている。

自分でも改めて映画というのも深く知ろ必要があるだろう、と思って辞書で「映画」という単語を調べてみた。

映画…フィルムに連続的に写しとった映像を、映写機でスクリーンに映し出し、、、

という辞書的用語が出てきていた。

当たり前だ。辞書で調べればそうなるか、と。

だが、辞書の中の「映画」という単語の隣を見てみると「栄華」という言葉が舞い込んできた。

「映画」を見るということで、隣にある「栄華」も見るこができるのではないか。


映画を見ることによって、栄華という言葉の意味にあるような富が得られることはないかもしれない。

だが、きっとこの活動が富よりも大事な子どもたちの心をより豊かにし、映画から得た感情が人としての成長を支え、人生の栄華が訪れてくれることはあるのではないだろうか。

そんなことを感じて辞書をとじた。

映画だけでなく、映画の隣にいるものも見せられるように。

今度は隣の町に映画を届けに行ってみようかな。

チョフさんのプロフィール

□古屋祐輔(通称チョフ)
10年前にネパールの孤児院に行き、子供達が柔道を通して心を育んでいる様子を目の当たりにしたことをきっかけに、教師をしながら長期休暇の際にネパールを訪れながら柔道の支援活動を開始。3年前に教師をやめネパールに移住し、現地に根ざした活動になるように奮闘中。現在は柔道以外にも教育支援や、様々なNPO団体と共に活動している。

Twitter: @chof425

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