こんにちは、World Theater Project広報担当の青山です。様々な形で映画活動に邁進されている”映画人”にお話を聞きに行くインタビュー企画。第2弾は、ラオス初の日本語フリーペーパー『テイスト・オブ・ラオス』(創刊2004年)創業者であり、日本ラオス初の合作映画「ラオス 竜の奇跡 (原題:サーイ・ナームライ)」 をプロデュースした森卓さんにインタビュー!

森 卓(もり・たく)

1977年大阪府生まれ、富山県育ち。大阪の高校卒業後、立山黒部アルペンルートを運営する会社に入社。1年で退職し、仕出し料理屋、タイ料理屋などで働いた後、アジアを8カ月旅した。一端帰国してラオスの民族織物の企画展を主催した後、ラオスに移住。現地にて旅行会社、通訳、コーディネーター、出版プロダクションを経て2004年にラオス初の日本語フリーペーパー『テイスト・オブ・ラオス』を創刊。

映画「ラオス 竜の奇跡」

2015年急激な都市開発が進むラオス。家族とのすれ違いで故郷を飛び出したラオス人女性「ノイ」。ナムグム湖観光の折、森に迷い、55年前の1960年の内戦中のラオスへと迷い込んでしまう。そこでダム建設調査の為、ラオスに渡った日本人青年川井に出会う。緩やかな川のほとりで二人は出会い、辺鄙な農村で、暢気な村人たちとの共同生活が始まった。が、やがて村に戦火が近づき、人々との軋轢がノイと川井を引き離していく・・・・ 。6月有楽町スバル座ほか、全国順次ロードショー

監督:熊沢誓人 脚本:守口悠介、熊沢誓人

www.saynamlai.movie

まずは森卓さんがプロデュースを手掛けた「ラオス 竜の奇跡(原題:サーイ・ナームライ)」公開決定おめでとうございます!

ありがとうございます。

すでにラオスでは試写会を行なったとのことですが、反応はいかがでしたか?

政府関係者を中心に70人規模での試写会だったんですが、反応はすごく良かったです。現地の記者も20人くらい来てくれたのですが、目をうるうるさせて観ている人もいました。

映画の完成とともに日本に帰国し、今は日本に滞在してらっしゃるのですか?

はい。映画を配給するために去年、ラオスの家を引き払って日本に帰国しました。ただ帰国してからも2ヶ月に1回ぐらい、ラオスは訪れていますね(笑)。ようやく今年の1月から日本に落ち着きました。

ラオスとの出会いは?

そもそも森卓さんがラオスに行かれたきっかけは何だったんですか?

バックパッカーですね。世界と料理に興味があったので。イタリアやフランス、中国などに行きました。一応「食」をテーマに旅をしていましたが、ほぼ無計画の旅でした。その時、中国を旅行中に初めてラオスの存在を知りました。15日のビザをとってラオスに行ったのが初めてでした。そのときはまだ旅の途中だったので、それから15年も住むとは思わなかったですけど。

初めて訪れたラオスの印象は?

中国からラオスに行ったので、あまりの違いに、まず驚きました。国境が中国は舗装されているのに対して、ラオスは赤土(笑)。ただ、ラオスに来て一気に開放されるような感覚はありました。とにかく空が広くて、そして赤土で(笑)。そんな印象でしたね。

ラオス人の人柄などはどうでしたか?

穏やかな印象でした。中国では物売りや客引きとの戦いの日々でしたから。ただ、ラオス人も私達と同じように、日々の暮らしの中でいろんなことが起こっていて。それを表に出していないだけなんですよね。また、「一族みんな一緒」という考えがあり、親戚の悩みも一緒に共有したりする文化を持っています。みんなで問題を共有している。何もないと思っていた国が、実はいろいろある。そして、国自体が何もないところから国づくりをして、発展しようとしている。住んでいれば、その動きを肌で感じることができる。これは面白そうだなと思いました。それで住むことを決めました。

ラオスに滞在を始めてから、最初に大変だったのは、職探しでした。旅行会社に入ろうと思っても、そもそも日本人のお客さんがいないので断られてしまいました。

ある日、ホテルマネジャーの日本人と話しているときに、たまたま通りかかった日系の旅行会社の人を紹介してもらい、その会社に入れてもらえました。給料はいくらでもいいと言ったら、ほんとに安かったですけどね(笑)。系列のレストランに住み込み、飯と宿はついているけど、給料200ドル(日本円で約2万円)。今よりもかなり物価が安かったので、それなりに生活できました。

その後、約500キロぐらい離れているところに自費で行かなければいけない仕事があり。貯金はちょうど旅行で使い果たしてしまったので、歩いて行こうと思いました。山道を通るのが距離的には近いのですが、ゲリラ(山賊)がいて危ないので、そこを迂回するルートを17日ぐらいかけて行きました。

食べ物などは大丈夫だったんですか?

ラオスのいいところは、知らない人でもご飯はどこでも食べさせてくれること。なので心配はなかったです(笑)。基本は村を転々とするかたちだったので。朝出て、昼の3時くらいに村について、そこで軒先にぼーっとしている人に話しかけて、そこで話し込んで、そのうち日がくれてくると「お前この後どうするんだ」と言われて「しめた」という感じでその村に泊まらせてもらっていました(笑)。

100%そのような状況になるんですか(笑)?

(笑)。いま冷静に考えると、彼らにとっても外国人を野放しにして死んでもらっても困るので。社会主義国のいいところかもしれませんね(笑)。

「ないなら自分でつくっちゃえ!」ラオス初日本語フリーペーパー制作を決意!

なぜフリーペーパーを出そうと思ったんですか?

14年前ぐらいですが、当時ラオスにはフリーペーパーがありませんでした。日本ではラオスのことは知られてないし、ラオスの記事もどこにも載ってない。それじゃあ、自分で作っちゃえと。26歳のときですね。

フリーペーパーを制作した経験なんてなく、ラオス国営航空の機内誌に無給で入社して。最初はそこで人の作業を見よう見真似しながらやって。会社に提案して日本語ページを作りました。クオリティーは、まあ(笑)。それから社内でテイスト・オブ・ラオスの前身の「ビエンチャン味」を創刊して。会社の中でしたが、良い意味で無給なので、経営も作業すべて自分で一人で自由にやって。検閲制度があるラオス政府への申請だけ会社にお願いをしました。その当時、ラオスでは、日本語フリーペーパーはウチしかなかったので、だんだんと周知され、日本のメディアからのコーディネートや、イベント、映像に関する仕事、広告代理店みたいな問い合わせなどが来るようになり、他の仕事へと転換していきました。

ラオスで映画をつくっている若者との出会い

なぜ、土壌のないラオスで映画を作ろうと思ったんですか?

2013年に首都ビエンチャンで国際映画祭が開催され、その実行委員として携わったんです。この国際映画祭は2008年から開催され、現在は大小規模で毎年開催されています。ラオス映画はほとんどなかったので、外国映画と、ラオス人のショートフィルム・コンペティションなどを行なっていました。それまで映画について詳しくなかったんですが、面白そうだなと思い、引き受けました。他の委員はドイツ、フランス、スペイン、ラオス人で、日本人は私しかいなかったのですが、そこでラオスの映画を作っている若者たちと出会い、興味を持つようになりました。

ラオスの映画史について教えてください。

初のラオス劇映画は1988年の作品だと思います。それから2008年までは不安定な国内事情もあり作られてこなかったと聞いています。その後もラオス映画が作られるようになりましたが、ラオス映画と言っても、タイ-ラオスの合作映画だったり、その時もラオスは制作をコーディネートしたぐらいだったので、映画自体がまだ数える程度しか制作されていないのが現状です。

ラオス映画が少ない理由は?

経緯として、一つは内戦が挙げられますが、もともと映画産業がなく、映画文化が育つ土壌がなかった。現在ラオスの映画館は4ヶ所(首都ビエンチャン2ヶ所、地方サワンナケート、パクセーにそれぞれ1カ所)。タイの会社が運営している映画館のチケット料金は5〜6ドルと、これまで1ドルぐらいで観られた映画が、設備は良くなりましたが、料金が上がって、一般ラオス人にとってはちょっと高いですね(大卒初任給が200ドルほど)。上映される映画はハリウッドやタイ、日本のものもたまにあります。

ラオスの映画業界に関して、今後どう変わっていくと思いますか?

人材不足、機材不足、他国よりも煩雑な政府規制(検閲制度、撮影規制)などがあるので、自由な映画制作は、まだまだ大変ですが、国内での制作実績や撮影前例も少しづつできてきています少しづつやりやすくなると思います。機材不足は、隣国タイから調達が可能です。人材不足は、ラオス人でプロのアシスタントとしてセカンドやサードを安心して任せられる人材が少ないので、外国製作のラオスロケ作品を増やしてラオスでの撮影現場をもっと作っていかなければいけないですね。それが映画産業の発展につながると思います。

ゼロからつくる映画「ラオス 竜の奇跡」制作秘話

ラオス映画の特徴などありますか?

幽霊ものが好きな女性の監督がいて、ただ社会主義で幽霊みたい目に見えないものも規制されている、だから、映画の中で幽霊なのか良くわからない、あやふやな幽霊ができたり(笑)。なかなかラオスで、自由でクリエイティブな仕事ができない現実はあります。昔よりも、やりやすくはなっていると思いますが、実力とやる気があっても実行に移せない場合もあります。

映画「ラオス 竜の奇跡」でも規制に対してはどうしたんですか?

初めから規制があることはわかっていたので、オッケーなラインを見極めて進めています。ただ内戦当時の映画なのに、銃や発砲も駄目、戦車・ヘリも駄目。でも、音はオッケーみたいな(笑)。ただ、あんなに駄目と言われた銃もあっさり通ったりもして。何が良いか、悪いかはその時の気分みたいなものもあって。基準がないんです。

この映画は実話をもとにしているんですよね?

はい。日本ラオス国交60周年ということで、なんの話にすれば良いか、モチーフを考えているときに、ダムの話にたどり着いて、ダムにまつわる話を探したら、この青年の話が出てきたんです。

すごい巡り合わせですね!

39年間、ラッキーだけで生きています(笑)。

「ラオス 竜の奇跡」映画制作にあたって、トラブルとかありましたか?

まず、映画経験者でもないし、製作会社でもないので、スタッフ確保が難しかったです。そもそも私自身それまで映画関係の仕事に携わっていたわけではなかったので。映画を知らない、映画を良くわかっていない人間が作ろうと言い出す。だから何をどう話せば、どう動けば良いかもわからない。それに、時間もお金も、他のプロジェクトでは体験したことがないほど、かかりますし。

またコンテンツが先か、それを支える予算が先か。映画に限らずですが、先に予算が決まっているほうがスムーズに進むんですが、コンテンツが先だと、その予算をどうするかということになる。その上、今回は「想い」だけが先にあって、コンテンツすらなくて。聞いた人からすれば何を夢を語っているんだと一蹴されてしまう。でも、その夢に一つ一つリアリティーを付けていくこと。いろんなことをいう人がいたけど、へこたれずモチベーションをキープして、続ける。映画製作はこれまでの人生で最大の壁だったと思います。

映画製作でなにか森卓さんのなかで心境の変化などありましたか?

映画の見方は変わりましたね。あとは覚悟の仕方が変わりましたね。覚悟がないと、みんなついてこない。素人ですが、責任をとる覚悟だけは持っていました。

きっと、この映画を観て、ラオスに興味を持ってくれる人が増えますね…!まさに国と国とつなぐ、映画だなと。

そうですね。日本とラオスをつなぐ映画になれば嬉しいです。あと、映画を軸に、日本発ラオス広報誌「ラオスタ」(https://www.laosta.asia)を4月7日創刊、ラオスPRイベント「ラオス博2017〜不思議の国のラオスへ〜」(https://www.facebook.com/haklao.japan/)を6月17・18日(土・日)に開催しますので、立ち寄って下さい。今年は、日本にラオスの風を吹かせます。

最後に、森卓さんの好きな映画を教えてください!

「風の絨毯」という映画です。プロデューサーの益田祐美子さんも素人から突然映画を作り出した人で、その状況が自分に似ていて。作品も日本とイランの合作だったので、お互いの国をどのように表現できるのかなど、勉強になりました。

母を突然亡くした少女さくらが、400年前に消失した伝説の祭屋台の再現を目指す中田金太の依頼で、母のデザインの絨毯を受け取りに、父の誠とイランへ向かうという実話を基にした日本とイラン合作ドラマです。日本の伝統工芸と中東芸術の奇跡的融合、異国の少年少女の出会いと心の交流を丁寧に描いている作品です。

記事担当

青山 奈津美(あおやま なつみ)

1996年生まれ。茨城出身。慶應義塾大学環境情報学部在学。この春から2年生。株式会社KADOKAWAのウォーカープラスでWEB記事ライターとして活動中。またAIESEC慶應義塾委員会に所属。ワールドシアタープロジェクトでは広報を務めている。

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